プロフィール

経歴

1969(昭和44年4月2日)府中市宮町で生れ、

3歳まで府中市本町三丁目。

幼少期は相模原市緑区(旧藤野町)で過ごし、現在は府中市押立町1丁目に在住。

小学校入学まで子役として活躍。

小・中ではリトル・シニアで野球漬けの日々。

早稲田大学本庄高等学院でラグビーに出会い、早稲田大学では体育会ラグビー部へ入部も怪我に苦しみ無念の途中退部。

卒業後は一念発起してアリゾナ州立大学へ入学し、全米最強のゴルフ部に挑戦。
帰国後は語学力を活かして出版プランナーとして歴代ベストセラー参考書等をプロデュース。

1997年の法人設立後は株式公開業務や事業企画に専心し実務力を高めた。

2003年には新たに商社を設立し、半年毎に新規事業を立案、実行。

それまでは国内の葡萄品質と醸造技術では不可能とされるも、各ワイナリー・オーナーが身内用に一升瓶に特別醸造していた甲州種100%使用の長期熟成タイプワインの大量生産「国産ワイン長期熟成プロジェクト」(現在も山梨県内にて貯蔵中)を日本で初めて展開。

また、大型小売店舗内広告のビジネス特許申請など「日本初」かつ「多くの人々に愛され夢のある商品やサービス」へ拘った数々の事業に挑戦。

2018年からは、かつての「肥満&病弱」少年が毎年の健康診断で理想値を叩き出すに至った自身の健康秘策や自社の流通事業で養った商品知識をベースに「全国健康プロジェクト」を主催。

学生二人の父にして今夏50歳で第三子が誕生予定、年初より高齢の両親との同居も始め、自ら「少子高齢化対策」を実践中。

議員内閣制の国政とは異なり、二元代表制の地方自治には政党政治を持ち込むべきではないこと、民間企業を知らずして市民目線を謳う議員や首長候補に疑問を感じ、これまでに都議選及び都内市長選への立候補経験あり。2017年に日本政策学校卒。

趣味・特技は月2回のゴルフ(HC1~3/ベストスコア67/4度のホールインワンを記録)、他スポーツ全般とファミレス巡り。血液型は情緒的かつ真っ直ぐなB型。

所属団体:府中市吟詠連盟 府中ゴルフ連盟 早稲田大学府中校友会 日本政策学校

 



エピソード

1969年東京都府中市生まれ。2歳のときに神奈川県津久井郡藤野町(現・相模原市緑区)へ転居。現在は府中市押立町1丁目に在住。

エピソード[幼少期]

画家を諦めグラフィックデザイナーへ転身した父の仕事について歩いていた際、子役としてスカウトされる。CMなどに多数出演するも、田舎からロケ現場に疲れ果てた母親の都合で引退する。おかっぱヘアーと「たくみ」という名前から、近所の子供たちから「女の子扱い」を受け、毎日虐められた。その際はズボンを降ろして「男の子」を証明していた。幼少期から牛乳1000mlを毎日飲み干していたためか、巨大&肥満児化した。

エピソード[小学生時代]

小学校2年生の算数掛け算(九九)暗唱会で、クラス1位(44秒)となる(ちなみに1学年23人の田舎の学校)。このとき先生に褒められるも「1位だったことよりも45秒を切ったことを褒めてほしい」(各段平均が結果5秒以内<5秒×9段であったという意味)と生意気な発言により担任には嫌われるが、それを聞いた校長からは九九の本質を理解できていると褒められた。同年の「よみうりランドの大声コンテスト」に一般の部で優勝し「日清ママースパゲッティ1年分」を獲得した。

小中学校では相模湖リトル・シニアリーグで主に捕手として活躍するも、関東大会では最強·調布リーグたちの壁に跳ね返されてきた。荒木大輔さんの実兄・健二氏らの活躍をテレビで目にして、「早実で甲子園!六大学野球で神宮!」を目指す。
田舎の秀才が八王子の大手塾主催の直前冬期講習に乗り込むが6クラス中で最下位のクラスで更に最下位だった。早実中の算数の第一問であった「17/64時間~」に対し試験管に「一時間は60分だからミスプリントです」と訴えるも、相手にされず60分間ずっと泣き続けた。もちろん結果は0点だった。

エピソード[中学生時代]

地元の藤野中学校の入学式直後、階段の踊り場で2年生の不良グループにブリキのバケツを被らされた上から酷い殴打を受けた。入学者一人ひとりの呼名の際の返事が大きかったのが理由。学級委員選挙では満票で選出。

中3時に冬のストーブ使用時間の延長を学校に求めたが受け入れられず、灯油登板の際に学校近くの駄菓子屋からもらってきたコカ・コーラの空きビンを使って地中に備蓄。休み時間に密かに補充していたところを校長に見つかりクラスのストーブ使用が禁止されたが、本人はその日から受験だったため、寒さからは免れた。この年、校長室での連続「正座&鞭」の刑記録9日間を樹立した。学級委員投票では、中一時は満票、中二時は接戦勝利、中三時は0票だった。

進学先は早慶付属高校に複数合格したが、①当時の早実の早大進学率が75%程度だったこと、②早実野球部の低迷期でもあり甲子園に行ける可能性が低かった(実際に高3時の早実は創部史上初の初戦敗退を喫している)こと、③受験勉強中に放映されていたドラマ「スクールウォーズ」でラグビーに感化されたこと、④自宅外通学を母親が希望したこと、⑤大雪の影響で会場入りが15分遅刻したにも関わらず試験会場であった理工学部のチャイムが故障し試験開始が同じく15分遅れ、泣きながら着席したと同時に試験が開始されたことに運命を感じたことから、ホームステイ(委託寮)制度が整い全国の田舎者が集う早稲田大学本庄高等学院へ進学する。

エピソード[高校時代]

一旦は野球部に入るが、半年後にはラグビー部へ移籍した。体格がよかったため入部1ヶ月から左ロック(NO.4)で早々に公式戦に出場。当時の埼玉県は熊谷工や行田工など全国トップクラスの強豪校や日本代表クラスがひしめく激戦区で、努力の甲斐なく一度もベスト8の壁を破ることが出来なかった。

肝心な成績はといえば、一年次は学年30番(音楽は学年1位)と優秀であったが、完全にラグビーに染まった二年次以降は学年中位~下位に沈んだ。

エピソード[大学時代]

1988年、早稲田大学教育学部社会科へ推薦入学と同時に、同年の日本選手権優勝の早大ラグビー部の門を叩く。初日に120人の新人が集まり、二週間後に70人、一ヶ月後に40人へと猛烈なシゴキの日々。181cmでは大学のロックでは通用しないと判断、体重が85kgあったことからスクラム最前列のプロップ転向。しかし夏前から背筋の怪我に苦しみ半年で無念の退部となる。この挫折が、その後も絶えず挑戦する意欲の源となっている。

エピソード[海外挑戦]

大学4年時に財閥系大手総合商社五社のみ就活し、全て不採用。そこで20歳から趣味的に始めたゴルフへの挑戦を決意。1992年の卒業後の夏に全米最強のアリゾナ州立大学ゴルフ部へのテストのため渡米。76ストロークで一次テストは通過するも、最終トライアウトで不合格となる。目標をMBA取得に切り替えるもバブル後の家計都合により、1993年秋に止む無く帰国。

エピソード[企業人として]

帰国後はゴルフキャディーやアパレルなどのバイトなどの生活を開始する。某出版社のサポートもあり、27歳でイラスト制作会社を起業。暫くして当時のTOEFL617点の英語力を活かしての学習参考書の企画・編集、雑誌プロデュース、大手学習塾の広告プランニングなどを手掛ける。

28歳より経営全般の知識の必要性のため中小企業診断士の勉強を開始。二次試験対策の「事例」科目の解答に反するドン・キホーテの成功戦略や現役診断士の活動範囲の狭さを知り、資格取得を中止する。しかし身に着けた経営、財務、労務、マーケ、仕入、法規といった知識を活かして、東証マザーズなどの証券市場のPR、流通小売業への卸売り、国内外貿易の支援、中小企業向け販売支援コンサルティング俯瞰的に手掛けるようになる。

2000年に旧知の広告系ベンチャー企業と合併。新規上場/経営企画業務に携わる。

2003年に新会社を設立。従来の広告系業務の他、信書保管や日本初の国産葡萄100%を使用した長期熟成型ワインの製造・販売を開始。

2006年より当時は概念のなかったクラウドビジネスに挑戦。

2008年に新聞購読率の低い杉並区、中野区、三鷹市を中心にテレビ番組誌付のチラシ配布サービス「ちらしんぼ」事業を開始。数十名のポスティングと配達要員を雇用するも広告主獲得に苦戦し、資金難に陥る。同年末にサービス中止。

2009年、所有するゴルフ会員権との惜別ラウンドに独りで出向いた際のスコアが1アンダー(71)であったことから、偶然にも同伴した大手流通業の役員からの救済により、倒産を回避する。

2010年、大型店舗のレジ前一等地の大型クーポンメディア「TakeValue」を開発。23区内でサービスを開始する。

2012年よりインターネット関連、古物ビジネス、各種雑貨の取扱いを開始。

2018年より未病対策を柱とした全国健康プロジェクトをスタートし、現在も活動中。

©  府中市議会議員選挙 新井 匠 All Rights Reserved.
PAGE TOP